禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「禅と茶の集い」便り(258)

               令和元年9月20日 記録者・栗田和夫

 

1.はじめに

先月は、摂心会のため、お休みでした。

今日も、千葉の親子三代夏祭りの会議があり、報告及び反省が話しあわれ、来年は、オリンピック年とし丁度、8月22日・23日の開催は、オリンピックとパラリンピックの開催の谷間の開催となります。きっと海外からのお客さんも多く来場されるのではないかと期待されます。

そんなことで、ばたばたとお茶の準備もこれまでどおりでした。

 

2.読書の時間   

 

さてさて私にとっては、本当に久方ぶりの読書会で、本日は、これまでどおりの「ブッダは、なぜ子を捨てたか」の「ヴァーチャル人間から真実人間へ」から「インドの仏教の衰退」までを読みました。  

ヴァーチャル人間てなに?ヴァーチャルとは、一般的には、仮想的とか疑似的とかいう意味で使われているかと思いますが、ここでは「幻想人間」とか言っています。とりわけインドの、カースト制度という人間差別社会では、真の人間ではなく単なるヴァーチャルな幻影人間であって、差別体制から自由になることを目指した「聖者」と呼ぶべき真実人間ということのようである。  

 

私は、インドを旅したことはないのだが、「今日のインドを自分の足で旅をすれば」、いたるところに「地獄」と「天国」が口を開けて待っていると言うのである。  

釈迦の生誕の地、インドでの仏教がなぜ廃れたのか、平等思想にあるといのであるが、まさに千利休の侘び茶における茶室の無賓主・すべて一味平等の精神に通じつるものがあるように思われる。  

 

しかしブッダの教えは、仏教固有の特質を抱えながら北伝・南伝において新しい展開をとげつつ発展し広まっていったと言う事になる。しかし、思うのだが、真のブッダの教えとは、北伝と南伝では、かなり異なるようである。例えば、平安末期の空海真言宗)と鎌倉初期の栄西臨済宗)と鎌倉末期の道元曹洞宗)でも、異なっているし、ましてや南伝のテーラーワーダ仏教は、さらないる違いが見られるようである。  

とは言っても、凡人の我々には、今現在、ただただ座るしかないのが現状ではないかと、つねづね思うのである。

 

3.呈茶から   

 

本日の呈茶は、忙しさのため、私が用意したのは、お菓子だけで、申しわけありません。   

 お菓子は、香ばしい「金ごま餅」で、中の餡は、黒ゴマ餡で白ゴマで包んだものです。まさに、ゴマづくしと言ったお菓子です。  

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茶がけは、Ymさんにご用意して頂きました。まさに鎌倉円覚寺・釈宗演老師の書で、私には「面壁九年」しか読めないですが、ダルマの画が何んともいません。

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本日のお客さんは8名でした。

 

4.おわりに   

 

呈茶の後は、全員で静坐をおこないました。   

さて、来週は、太田先生のいつものワークショップがあります。皆様のご出席宜しくお願い致します。  

なお私ごとで大変恐縮ですが、後期の専門学校の授業が、水・木・金の3日となりました。新しい、授業科目が追加となり、私自身は大変なことなのですが、金曜日が、夜学の隔週となりました。

従いまして、次回の10月・11月のみ、金曜日の呈茶が出来なくなってしまいました。皆さんと相談いたしまして、抹茶を点てるのではなく、簡単なお茶の用意でも良いのではないかとのことで、私自身大変心苦しいのですが、ご不便をおかけいたしますことご容赦願いたいと思います。               以上