今日,4月28日は15年前に亡くなった長男の誕生日です。
仏典の中にも「死んだ子の年を数える」ことの儚さを説いたものがあったように思いますが,あの事故がなければ今日,30歳の誕生日を迎えていたこととなります。
どんな仕事をしていたのでしょうか?
変わり者だったから結婚はしてないかも。
彼女くらいはいたんだろうか?
でもきっと親には紹介してくれなかっただろうな。
などつらつらと思い浮かべております。
禅にも造詣が深く,ご自身参禅されていた哲学者の西田幾多郎先生がある本の前書きに亡くされたお子さんへの追悼を寄せたものがあります。
諦めなさい、忘れなさいと言ってくれる人がいるがこれが親にとっては耐え難い苦痛である。
せめて我がの一生の間だけは思い出してやりたいと思うのが親の心である。(中略)
この悲しみは苦痛と言えばまことに苦痛である。しかし親はこの苦痛がなくなることは望まないのである。
この文章を教えてくださったのも円覚寺の横田老師でした。
確か円覚寺に興味を持ち始め,たぶん2番目に見た横田老師の動画がこの西田先生の言葉を紹介する日曜説教で,この時から私の中で円覚寺がどんどん大きくなり,宿泊坐禅会はじめ講演会など通うようになったのでした。
亡き長男の30回目の誕生日を迎えた朝,15歳のままの遺影を前に,15年分老いた父が彼の為だけに読経し,冥福を祈り,そして彼の分までしっかりと生きていこうと思っております。(Ym)