禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

第41回 禅体験会第二講「禅とこころ」②

まず現代社会というものを見てみると、とても便利で豊かになったとされる一方で一向に減らない自殺者、増え続けるうつ病、引きこもり、と物は豊かになっても精神的にはストレスフルな社会ともいえます。

 

以前は不便であったがゆえに生活のペースがゆっくりとしており、そのスピードに人間の精神が付いていけていたものが、余りにスピードアップし、グローバル化した情報社会となったがために常に頭や心がフル回転していないといけない時代です。

 

事実、便利になったはずなのに日本人の平均睡眠時間は減る一方です。

一日中、スマホをいじり続ける若者、以前は泊りがけで行っていた出張も日帰りとなり、その往復する電車や飛行機の中でも書類を作り続けるといった、どんどん生活が便利になっているはずなのに、どんどん忙しくせわしない生活となっているとも言えないでしょうか。

 

また豊かさについても同じようなことが言えるかもしれません。

私が子供のころに放映されていたアメリカのホームドラマは、大きなガレージに何台もの自家用車をもち、休みの日には車で買い物に行って抱えきれないほどの食材を買い込んで、これまた巨大な冷蔵庫に入れるというシーンがありました。

子どもながらになんて豊かでうらやましい生活だろうと思っておりましたが、あれから40年が経ち、気が付くと日本での生活もその夢に描いた生活を当たり前のように暮らす時代となってしまいました。

 

で、このことを改めて実感させられたのが一昨年暮れの円覚寺合宿坐禅会の時でした。ちょっと横道にそれますが円覚寺での体験を簡単に紹介します。

 

円覚寺には出家せずに禅修行したり体験するための道場が明治時代からあり、居士林と呼ばれております。今でも毎週末や年に数回、2泊3日の合宿坐禅会が開催されており老若男女どなたでも参加できるよう広く門戸を開いております。

 

専門道場とは言っても昔ながらの冷暖房なし、窓も薄いガラス一枚でサッシなどと言うものはありません。

その中で薄暗い中、坐禅し、作務と言う作業をしながらの修行をし、おかゆをたべて暮らすといった具合です。

この合宿中は最終日の感想を述べる時間など一部を除いては、終始無言でいることが最初の注意事項として教えられています。

なぜこうした環境ややり方をいまだに続けているかと言うと居士林の指導教官である内田和尚さまの最初の説明がよく坐禅の本質を表していると思いますのでご紹介します。

坐禅と言うのはコップに入った泥水をかき回すをの止めること、

そのコップに泥を継ぎ足すをの止めること、

そうすればコップの中の泥は次第にそこにたまり、

水は澄んでくることが感じられる それが坐禅です。

 

つまり普段の我々の脳は危険を回避し、快適に自分にとって有利になるよう情報をたくさんいち早く集めようとし、それを判断し、手段を考えていくという思考回路が常にフル回転している状態です。

もちろんそのために未来を予測したり、過去の記憶を参照したりもして、より的確で迅速な判断ができるよう無意識に脳を働かせている状況とも言えます。

 

また情報だけでなく、食事、娯楽、休養さえも取り過ぎると、これが泥となって余計に体や心を濁らす原因となってきます。

そのためこの合宿坐禅会3日間はできるだけ刺激を少なくし、身体に入れる食べ物も情報も必要最小限の環境にしているようです。

 

薄暗い部屋で目を半分つぶり視覚情報を減らし、都会から離れた山奥の環境で、耳に聞こえてくるのは鳥の声や虫のざわめき、そんな居士林で寝起きし、口にするものは白粥、沢庵、番茶といった粗食にして、それでいて安全に坐禅できる時間空間を提供していただくことで真に頭も身体も休める体験ができるのです。

 

また刺激に溢れた現代生活から隔離されることで微細な感覚を取り戻し、白がゆのご飯の甘味、塩昆布のうまみなど改めてはっとするほど体感できるのです。

 

食事は一家団欒、話ししながらにこやかに食べるのが理想と現代人なら誰もが思いますが、でもそれさえも安全安楽な時代の一つの妄想かも知れません。

言い換えれば現代生活は五感に鈍感となり、より強い刺激を求めるような生活とも言えるし、それを遮断することで本来の感覚に戻れるとも言えるでしょう。

「ゆっくりと食べる」「丁寧に生きる」 それこそが禅の入り口だと思います。

 

合宿2日目には本格修行している雲水さんたちの僧堂も見学させていただけるのですが、ガスも水道もなく、かまどに薪をくべてお釜で飯をたき、湯を沸かしている生活です。

たらいに井戸水を汲んで、洗濯板で手洗いをするという不便極まりない生活でまるで明治か大正時代かと思うような具合です。

我々は洗濯や炊事する必要がなく、坐禅だけしていればいいのですが、それでも朝早く起きるのが辛いとか、TVもないし退屈、坐っているのも身体が痛くなるなど決して楽ではありません。

 

でもそうした3日間ですが誰とも口をきかなくてよいというは、他の人に気配りする必要がなく、徐々にではありますが安らぎ感じることができはじめました。

 

そして3日間のプチ修行が終わり、北鎌倉から総武・横須賀直通快速に乗って千葉駅に降り立った時、とても不思議な感覚に襲われました。

 

ちょうどその日はクリスマスだったので、リニューアルされたばかりの駅ビルは赤や金色のイルミネーションで飾り付けられ、眩いばかりに輝いていたのです。

しかし円覚寺帰りの私の目に映った千葉駅は、まるで未来の都市のような,外国のようなそんな光景に見えました。

まるでタイムスリップしたかのような感覚が数分間つづき、ようやく違和感が薄れはじめたと同時に腹の虫がぐぅーって音を立てて一気に現代に戻りました。

それまでは自分が空腹であることにも気づいていなかったというか,やはり異次元で満ち足りた身心の状態だったのだろうという経験です。

 

この合宿に参加して、人間らしい生活とはなんなのかとても考えさせられました。

退屈しないように刺激に溢れ、物があふれ、おいしいものがふんだんにある自由な現代の方がいいはずなのに、そうとも言い切れないなと思う自分がおりました。

というのもまるで囚人のような生活とも言えるタイムスケジュールに決められた日程での3日間を過ごしたのに、なんだか身も心もさっぱりした、風呂上がりのような爽快感をからだが感じていたからです。