禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(2)アントニオ・ダマシオの「感情」と「情動」について

 Ⅱ アントニオ・ダマシオの「感情」と「情動」について

 

アントニオ・ダマシオの貢献の中で禅の修行との関係から見ますと、今 一つ重要なことがあります。それは感情と情動とを明確に区別して定義を したことです。    

 

従来の心理学や精神医学において、不安・恐怖・怒り・恨み・憎しみ・嘆きなどを情動とし、喜・哀・楽などをより高等な感情として区別していました。そして情動の座を大脳辺縁系に、感情の座を前頭葉にあるとしていました。    

しかし彼は、従来高等な感情とされていたものでも、エピソード記憶が関与する、つまり大脳辺縁系が関係する限りは、情動であると定義しました。    

一方感情とは、大脳辺縁系とは直接関係がなく、体性感覚と密接な関係があり、その座も一次体性感覚野の近くの二次体性感覚野又は島(とう)皮質であるとしたのです。(体性感覚は、触・圧覚、痛覚、温・冷覚、深部感覚等の総称です。脳の役割分担という点からみますと頭頂葉の中心溝の前が随意運動の座である運動野で、中心溝の後部が一次および二次体性感覚野です。)

 

(最近の脳科学の知見では、島皮質は前部と後部の役割が異なっていること、前部は大脳辺縁系・嗅覚・味覚などと密接に関係していること、後部は聴覚・体性感覚などと密接に関係していることが解ってきました。

つまりダマシオのいう「感情」の座は、島皮質後部と密接な関係があるということになります。脳の部位につきましては、図6ブロードマン脳地図を参照してください。)    

ここで「感情」と「情動」との違いをみておきましょう。    

「情動」のほうは、あたかも納豆のネバネバのように簡単には断ち切れず、後を引くという特徴があります。これは大脳辺縁系に集積されたエピソード記憶と密接な関係があるからです。    

「感情」のほうは、体性感覚(あとで見ますように聴覚においても)と密接な関係があり、繋意の部位が変われば瞬時にして、別の感情に切り替わるのです。つまり「いま・ここ」のみの機能、「その時限り、その場限り」ということで、後を引かないという特徴があります。    

皆様は、第二部 第三章のⅢで述べます「歩行の修練」を実修しますときに、このことを理解することができるでしょう。   

 

なおダマシオは、体性感覚と感情との密接な関係を認めていますが、聴覚と感情との関係性については、明言していません。 しかし私は、多くの先達方が工夫されてきたものを吟味した結果、聴覚 でも、究明すべき感情が存在していると考えております。(この点につきましては、第二部 第二章で述べます「聴覚の修練」を参照してください。)