禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(3)世界の構造と「自伝的自己」

Ⅲ 世界の構造と「自伝的自己」    

 

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図1・2で見ますように、世界中には無宗教の社会もあればキリスト教イスラム教・ユダヤ教ヒンズー教・仏教による社会もあれば、その他さまざまな風土・慣習・民族(部族)・言語・文化・宗教(宗派)を背景にした社会があります。 そして現実には、その社会を構成する人々の「自伝的自己」の総和(但し構成員が平等に影響力を行使できていないことは、現実の政治・経済・社会状況をみればわかりますが)によって、各社会が競い合ったり、時には社会間の争いも起こっています。

一方国家(または地域)という視点からみますと、同一国家(または地域)においては、その安寧・平和が侵されなければ、複数の異なる背景(風土・慣習・民族(部族)・言語・文化・宗教(宗派)など)の社会も共存しています。

それぞれの社会でも、その社会の安寧・平和を脅かさない限りで、各個 人の「自伝的自己」がお互いにその優劣を競い合っています。 優劣を競うのは、各国家や各社会や各個人ばかりでなく、各宗教・各宗 派・各思想も同じです。 それは、宗教(宗派)・思想といっても、ほとんど全てが「視覚的イメージ及び言語を操作する力」などの働きを有する「自伝的自己」に依存して いて、その枠を離れることができないからです。   

ですから、どんなにすばらしい原理・理論や教義・法理といえども、風 土・慣習・民族(部族)・言語・文化・宗教(宗派)などによって、「汚染」 されている、つまり「党派性」を持っているのです。(この点につきまして は、第三部 第四章のⅦの2 ジャン=ポール・サルトルの批判 を参照 してください。)

例外があるとすれば、論理学・数学・物理学・化学などの科学的論理でしょうか。

しかしこれらにも論理・数字・数値化などへの絶対的な服従の 色彩も感じられます。しかもヒトの思考(「自伝的自己」)の産物という枠 組みから離れることはできません。