禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(13)嗅覚・味覚および聴覚・体性感覚における「中核自己に備わっている3つの宝物」の定義

Ⅴ 嗅覚・味覚および聴覚・体性感覚における「中核自己に備わっている3つの宝物」の定義    

 

長年「大心・喜心・老心」や「正しく・楽しく・仲よく」に対応し、「中 核自己」の特徴である「いま・ここ」のみの機能、そして「中核自己」領 域におけるダマシオの「感情」に該当する言葉を求めた結果が、以下のよ うなものになったのです。    

 

「大心」・「正しく」に対応するものを、①「断」または「断」の機能(舌 と口の関係でいえば、カタカナの「ム」や「ン」と密接な関係があります) とし、「喜心」・「楽しく」に対応するものを、②「風の感覚(音の波の感覚)・ 身体(外耳道の皮膚および鼓膜)が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」(舌と口の関係でいえば、カタカナの「ハ」と密接な関係があります)とし、「老心」・「仲よく」に対応するものを、③A「身体が感じる窮屈さ(両目頭に音を聞く)・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」(舌と口の関係でいえば、カタカナの「ニ」と密接な関係があります)と③B「身体が感じるゆとり・身体が感じる穏やかさ・・・優しさ・思いやり」(舌と口の関係でいえば、カタカナの「ユ」と密接な関係があります)という言葉に、置き換えたのです。

 

そしてこの①・②・③(AとBの二系列があります)を、嗅覚・味覚お よび聴覚・体性感覚における「中核自己に備わっている3つの宝物」とし たのです。    

これまでの『脳科学と禅』・『「調息山」登頂のためのガイドマップ』(以後『ガイドマップ』と表します)で述べてきました「中核自己に備わっている3つの宝物」の定義は、少し修正されています。

 

といいますのも、私は2007年頃より、「印契を応用した発声」(第三部 第六章のⅡを参照)を追加し、それを指導することによって、体性感覚領域において、「老心」・「仲よく」に対応するのは、③A「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」と③B「身体が感じるゆとり・身体が感じる穏やかさ・・・優しさ・思いやり」の二系列があるということに、気付かされたのです。

 

ということで、嗅覚・味覚及び聴覚・体性感覚における「中核自己に備 わっている3つの宝物」について、私の新しい定義を述べておきましょう。

①「断」または「断」の機能 ②「風の感覚(音の波の感覚)・身体(外耳道の皮膚および鼓膜)が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」 ③A「身体が感じる窮屈さ(両目頭に音を聞く)・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」 ③B「身体が感じるゆとり・身体が感じる穏やかさ・・・優しさ・思いやり」 ということになります。

 

ただしここで、先達方が残された技法から、究明すべき「宝物」が個々 の感覚によって違いがあること、について触れておきましょう。

嗅覚・味覚及び聴覚・体性感覚、そして第二部で述べますように視覚に おいても、①「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなすた めの技法が残されています。

 

そしてダマシオのいう「感情」(②・③A・③B)を体得し・味わい・使い こなすための技法が残されているのは、聴覚と体性感覚の領域のみなのです。

ただし、聴覚では①・②・③Aを、体性感覚では①・②・③A・③Bをという具合に、少し相違がありますので、以下にまとめました。

 

聴覚領域の「中核自己に備わっている3つの宝物」とは、 ①「断」または「断」の機能 ②「音の波の感覚・外耳道の皮膚および鼓膜が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」 ③A「両目頭に音を聞く・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」 そして体性感覚領域の「中核的自己に備わっている3つの宝物」とは、 ①「断」または「断」の機能 ②「風の感覚・身体が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」 ③A「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」 ③B「身体が感じるゆとり・身体が感じる穏やかさ・・・優しさ・思いや り」 ということになります。

 

以上述べました「3つの宝物」は、「中核自己」領域の機能という性質上、 全てのヒトに備わっているのです。

そしてこの「3つの宝物」は使えば使うほど豊かになり、その源泉は脳障害や認知症などにならなければ一生涸れることはありません。

いわばヒトに与えられた「ギフト」ともいうべきものですから、これを体得し・味わい・使いこなさないというのは、とても勿体ない話です。