禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(11)嗅覚・味覚および聴覚・体性感覚における「中核自己に備わっている宝物」を究明する、先達の言葉から

Ⅲ 嗅覚・味覚および聴覚・体性感覚における「中核自己に備わっている宝物」を究明する、先達の言葉から    

 

「宝物」の種類がいくつあるのか、あるいは性質・特徴はどうか、について究明するために、お二方の先達の言葉を参考にしてみましょう。   

 

1 道元禅師の「喜心・老心・大心」

   

道元禅師の『典座教訓(てんぞきょうくん)』に以下のような言葉があります。  

「事を作し務を作すの時節は、喜心・老心・大心を保持すべき者なり。所謂喜心とは喜悦の心なり。(中略)今吾れ、幸い人間に生まれ、而も此の三宝受用の食を作る、あに大因縁に非ざらんや。尤も以て喜悦すべきものなり。(中略)所謂、老心とは父母の心なり。例えば父母の一子を念ふが若し。念を三宝に存すること、一子を念ふが如くするなり。(中略)所謂、大心とは、其の心を大山にし、其の心を大海にして、偏無く党無き心なり。(後略)」   

以上の「三心」は、道元禅師の言葉としては比較的易しい表現ですが、 それぞれの言葉は奥が深く、中身を味わうのは容易ではありません。  

なお「大」につきましては、老子(紀元前6世紀の中国 道教の祖) の言葉が参考になりますので、引用しておきましょう。 【物あり、混成し 天地に先だって生ず、寂たり寥たり。独立して改めず、周行して殆(あやう)からず、以て天下の母(もと)たるべし。吾れその名を知らず、之を字(あざな)して道と言い、強いて名をなして大と云う】

 

2 耕雲庵立田英山老師の「正しく・楽しく・仲よく」

 

耕雲庵立田英山老師は著書『人間形成と禅』の中で、「人間は、正しく・ 楽しく・仲よく生きなければならない」、そしてそのためには「禅の実参 実証の方が確実にして早道です」と述べられています。   

そこで耕雲庵老師のキイワードである「正しく(い)」・「楽しく(い)」・ 「仲よく(い)」について、御著の『人間形成と禅』から引用してみまし ょう。

 

ⅰ 「正しく(い)」について

「ほんとうの正しいことは、人間によって考え出されたり創り出され たりするものでなく天然自然に厳存する真理そのものであるという ことになります。つまり、あるべきようにあり、なるべきようにな るのが正しいことであります。これを、人間という器に与えて考え れば「まこと」であり、有の儘のすがたであります。有の儘のすが たとは、少しも飾らない純真なすがた、天然自然・天真流露のすが た、手ッ取り早く申せば嘘のないすがたということにもなりましょ う。(後略)」(第三版 26頁、新装第1版 20頁)

「正しくあるとは、自然のまま、有の儘であるということです。言い換 えれば真理そのものです。これを仏教では一真法界と申しています。 この一真法界に帰入することを、われわれは如是法三昧と言い、一 般に説く場合には真理に合掌すると申{_ております。つまり真理に 合掌するのが、ほんとうに正しいことです。」(第三版 196頁、 新装第1版 163頁)

 

ⅱ 「楽しく(い)」について

「それは“それでよいのだ、それだけのこっちゃ!”と、われとわが 身に合点々々することであります。こういうと、一見 甚だ消極的な あきらめのような言葉で、若い人々の中には、反撥さえ感ずる人も あるかも知れませんが、実はそうではなく、これは非常に高次の精 神内容に属することで、人間形成の又重要な一面です。

禅家の方で、 いう大悟徹底というのがそれです。

これが、ほんとうの楽しい満足 で、これならこの世に於て、そして自分の一生の間にも達し得られ る幸福感であります。」(第三版 21頁、新装第1版 16頁)

「楽しいということは、その人の主観によることですが、要するに我 れと吾が身に納得がいけ満足するのでなければ、どんな結構な境遇 にあっても楽しい筈はありません。ところが、この矛盾だらけな不 合理な不自由な不足勝ちな人間社会に棲息しながら、どうしてこの まま納得がいけ満足し得るでしようか? もしそういう疑問が浮ぶなら、それはいわゆる裟婆といわれる人間社会に対する観点が違う からです。「裟婆即寂光浄土」という立場から観れば、このままで 結構楽しいのです。これは流転即実相であるという諸法実相の原 理に徹しなければ判りません。つまり法界円具である、森羅万象すべてが仏性の具現であるということに思いをいたせば一切時一切処 に於て、そのままが楽しい筈です。これを一般に説く場合には、判 りやすく、楽しくあるとは、仏性に合掌することだと説いています。」 (第三版 196~197頁、新装第1版 163~164頁)

 

ⅲ 「仲よく(い)」について

「家内安全とか家庭円満とかは、それほど人生にとって緊急大切な問 題なのであります。 さてわれわれは、その一員として如何にしたら家庭の円満を期することができましょうか? その為には、先ずお互いに敬し合い愛 し合い協力して苦楽を共にせねばなりません。端的にいうなら仲よ くせねばならぬということになります。」(第三版 10頁、新装第 1版 13頁)

「仲よくあるためには、法界縁起説を了解するのが根本になっています。世にある衆生は、有情非情を突っくるめていかなるものも相互 に関連し依存し調和して存在しています。世に単独の存在というも のはありません。もっと根源的に観るならば、皆な悉くが一仏性の 現われであるから、元来が自他不二であり一切が自己の面(つら) であります。仲よくできぬ筈はないのですが、そこまで根源的に観 ないでも、今 申した通り、お互に依存し合っており単独の存在は あり得ないのですから、少くともお互の立場を考えれば、仲よくで きない筈はありません。これを仏教では相即相入(そうそくそうに ゅう)と申していますが、われわれは判り易く、お互に合掌し合う と説いています。」(第三版 197頁、新装第1版 164~165頁)