禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(3)

*私が所属する「人間禅」における公案禅の階梯では、「心不可得」を会得するために、『兜率三関』の第一関「撥草参玄は、只 見性を図る。即今 上人の性 何れの処にか在る?」という公案が与えられます。これに対して、修行者の呈する見解(けんげ)が、その室内に伝わっている模範解答に合致し更にその境地に適切な漢文を置くことができれば(この作業の事を著語(じゃくご)といいます)、老師から「心不可得」を会得したと証明され、更に修行を継続する志願の堅い方に対しては、黒絡子が授与されます。そしてこの「心不可得」は、前述のように達磨大師の法を継がれ二祖となられた神光居士の境地を追体験するためのものでもあるので、この会得をもって坐禅の上での自利の極とされてきました。

ところが、老師からこの坐禅の上での自利の極に至ったと証明されたのは宜しいのですが、肝心の当人がそのことを納得できるということが、殆んど見られないというのが私の周囲の状況です。この落差をどのように捉えたらよいのでしょうか。
結論的に申せば、『兜率三関』の第一関を許された方の坐禅のレベルが神光居士の坐禅のレベルに達していないということなのです。
坐禅の上での自利の極を体得する為には、坐禅のレベルにおいて、できれば次の二つを体得して頂きたいものです。

第一は、十合目 「止」(只管打坐1)が体得できていること。これができないと、不安・恐怖等の念慮を完全に切断することができないからです。つまり「布団上で死にきる」(『脳科学の成果より』や『禅仏教の方向性』の言葉を借りれば、自伝的自己を棚上げにする働きを有する「中核自己に備わっている3つの宝物」の中の「断」の機能を体得する)ことができるかどうか、しかも1回限りではなく必要な時にはいつでも再現可能かどうか、ということです。
この再現可能ということはとても重要です。最初の「断」の状態の時には気づかなくても、2回目以降には、最初の経験が大脳辺縁系の記憶の貯蔵庫に蓄えられていますので、この技法が「断」に至る技であるという「気づき=覚=悟・・・慧(最初の経験によって、大脳辺縁系の陳述的記憶の貯蔵庫の中に新たにセットされた記憶が、2回目以降の経験を契機にして、意識上に昇ること)」が生まれるからです。

ですから、再現可能な「断」に至る技を体得するだけでも、実質的には「安心」の場に到達してはいるのですが、坐禅の上での自利の極に至ろうとするならば、第二の技をも体得する必要があります。(従来、このことはあまり強調されていなかったようです。この点もとても重要ですので、別稿で検討されます)

第二の技とは、「薄紙一枚の坐禅(只管打坐2)」の体得です。
只々赤丸に繋意(「止」)だけでは、先述したように「断」の機能だけが身に付きます。これでは荒業(死と向き合うとか戦におもむく等、今そこにある危機と対峙する時の心構え、更には日常生活において「断じて行う」力の獲得)はできますが、日常生活における細やかな行動を維持するための「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」に欠けているのです。

しかも既述のように、「断」の知覚せも排除してしまうというのが「断」の働きですので、自分で自利の極に至ったと真に実感できるのは、「薄紙一枚の坐禅」つまり「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」を体得した時です。(「断」と「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」との違いは詰まる所、一方は「定」のみ又は「気づき」の過程が加わった時には「定から慧へ」、もう一方は「定慧一如」というよりはむしろ「修証一等」ということと関係するのですが、この違いについては別稿を参照してください)

以上の二つが叶った時に、自分で坐禅上での自利の極に至ったという実感が生まれるのです。ここで「中核自己に備わっている3つの宝物」の中の「断」の機能と「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」という2つが、少なくとも坐禅の行の中でという限定があるものの、手に入ったことになります。
真に神光居士の「心不可得」の境涯に達するのは容易ではないのです。
しかし志を以って「調息山」登頂のためのガイドマップに従って、歩を進めて頂ければ誰でも、この処に到達できるのです。
十合目に到達できれば、その別峰まではアットいう間ですから。