禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

禅と茶の集い便り (11) 参加者が増えてきました 「明歴々露堂々」

今日(2014年1月24日)は第4週なので、初めに1炷香(45分)の静座をしました。
 
次は太田先生のお話です。
太田先生は精神科のお医者さんで長く(50年近く)座禅の修業を続けている方です。
「禅と茶の集い」の会員でもあります。
 
千葉市こころの健康センターで、「調身調息の技法を応用したストレスコーピング」という市民向けの講座をして大変好評だったので、「禅と茶の集い」でも連続講義を続けてもらっています。
 
実際に体を動かしたり声を出してみるワークショップ的なことも含めていろいろな試みもしますが、最終的には座禅がしっかりできるようになることを目的としています。
 
かなり講義が進んでいるので初めての方には少しわかりにくいかもしれませんが、
今日は初めての方が多かったので、基本的なことから話をしていただきました。
 
先週から今週にかけて、房総座禅道場のHPがきっかけで、初めて会に来てくれた人が3人。
とてもうれしく思いました。
 
また、1年ぶりにひょっこり顔を出してくれたAさんは、しばらく遠ざかっていたけれど、今年は絶対頑張りたいということでお見えになり頼もしく思いました。
Aさんのような人が再訪してくれると、こちらも励みになります。
参加人数は12名でした。
 
先週お約束した、徳富蘇峰の達磨図にある「露堂々」について、
一行物(芳賀幸四郎著 淡交社)から抜粋します。(一行物では、「明歴々露堂々」(めいれきれき ろどうどう)として紹介されています。)
 

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「明歴々露堂々」の六文字は、古来、一行物として最もしばしば書かれる句である。 
「明歴々露堂々」とは「明らかにはっきりとあらわれていて、少しもかくすところがない」ということで、「遍界曾(かつ)て蔵(かく)さず」という句と、ほぼ同じ意味である。
しかし、いったい、何者がそのように「明歴々露堂々」だというのであろうか。
一般に真理は高尚深遠なところに秘在すると考えられ、「如是の法、仏祖密に付す」などといわれるため、仏教の極致は何か神秘的なもののように思われているが、実はそれは「明歴々露堂々」たるものだ、というのである。
(略)
なお、この「露堂々」の三文字を、第二義・第三義のアクセサリー、たとえば色々の肩書・勲章などで自分を飾ることなく、またジャーナリズムなどを意識して進歩的なポーズをとるなど、自己をいつわり気取ることもなく、「ワシはこれだけだ、どこからでも見てくれ」というように、堂々と人生を生きることの意味にとることもある。
「裏を見せ表を見せて散る紅葉」という誰やらの句があるが、露堂々と生きるとは、こう生きることである。
但し、そのためには、自己を千鍛百錬せねばならぬことはいうまでもない。
 
義存  合掌