禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「禅と茶の集い」だより(42)  渓聲山色(けいせいさんしょく)

今日(2014年10月10日)は第2週。二炷香(45分×2回)の静坐をしました。
先週に引き続いて、また大型の台風が近づいているということでしたが、今日はまだ影響もなく晴れた一日でした。
 
今年から会に来ているZさんが友人を連れてきてくれました。
このようにして坐禅の輪が広がるといいです。
新到のTさんは、体が硬くてとても坐禅は組めそうになかったのでイスを使っての静坐となりました。
まあ、おいおい足が組めるようになればいいと思います。
 
今日は先週のお茶の時間の掛け軸について、解説してみます。
この軸は、釈宗演老師の「渓聲広長舌 山色清浄身」です。

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もともとは、宋の大詩人の蘇東坡の
 
渓聲便是広長舌  渓声便(すなわ)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)
山色豈非清浄身  山色、豈(あ)に清浄身に非ざらんや
夜来八萬四千偈  夜来八萬四千の偈
他日如何挙似人  他日、如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん
 
という一首の偈だったようです。
 
『禅語の茶掛 一行物』から引用
「シャンシャンと流れる谷川の音はそのままで仏の大説法でありそびえたつ山の相(すがた)はそのままで清浄身・仏の相である。
私は昨夜来、無数の偈を聴聞している(渓流・松風・雨戸のゆれる音も皆偈である)が、こればかりは、なんとしても人に説くことも示すこともできない。
人びとが自ら悟って冷暖自知・自肯(こう)自得するのをまつほかない。」
という意味である。
そして同じこの消息を、日本曹洞宗の鼻祖(びそ)永平道元(えいへいどうげん)は、「峰の色、谷の響きもみなながら、我が釈迦牟尼(しゃかむに)の声と姿と」と詠じている。なお、彼が東坡のこの偈を愛誦していたことは、その『正法眼蔵』に「渓声山色」と題する一章のあることから察せられよう。
 
後世、雪堂(せつどう)の行和尚(ぎょうおしょう)という僧が東坡の偈を見て、各句に二字ずつ無くもがなの剰語があるとしてこれを削り「渓聲広長舌 山色清浄身 八萬四千偈 如何挙似人」と五言絶句に改める方がよい、といったといわれるが、禅者はこれをさらに進め「渓声山色」の四字に圧縮して揮毫するのである。
事実これで十分であることは、正受(しょうじゅ)老人と通称される道鏡慧端(どうきょうえたん)(白隠慧鶴の師)が、「広長舌・清浄身も不潔浄(よけいなもの)、だだ渓声山色のみにて可なり」と評していることでわかるであろう。
 
なるほど、「ものそのもの」があれば、それになんら説明を加えても、よけいなものになるということなのですね。
ただ、初めてこの語を目にする人には、あえて「よけいなもの」を加えて解説してもらわないとわかりませんね。
 
それにしても、谷川の音とか、山の姿は、実物を見聞きしなければ分からないし、小さいときからある程度触れる機会がないとこのような感性は育たないと思います。
スマホ世代にどのように伝わっていくのかなあと思います。
 
なお、来週の2014年10月17日(金)はコミュニティセンター祭りのため部屋が使えないのでお休みとなります。
24日は7時から45分の静坐、その後は太田先生による坐禅のワークショップです。
 
どうぞおいでください。お待ちしています。
 
義存 合掌