禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

独りで悟ることは危険 「禅と茶の集い」だより(82)

ここのところ雨模様の日が続きこうなると日差しが恋しくなります。
今日(2015年9月4日)は9月の第一週で6時の読書会から始まりました。
 
ネルケ無法さんの「日本人に宗教は要らない」の続きです。
坐禅の見よう見まねは独りでもできますが、実際に正しい姿勢を身に付けるということはまずできません。
これは何回も書いていますが、客観的な正しい目がどうしても必要です。
まして、「悟る」ということになると独りではできないどころか危険でもあります。
ここのところをネルケさんは次のように言っています。
 
しかし独りの修行は、大変危険である。共同生活をしなければ、すべて自分の思い通りになるが、肝心の自分の姿は一切見えない。
人の目は、鏡の役割をしているのである。
叢林(僧侶が共同生活をしながら修行する場所)はお互いが切磋琢磨する場なのだ。自分独りでは、切磋琢磨のしようがない。
「無師独悟」と言う言葉もある。
独りで山に篭り、何ヵ月か経って「私は悟った」と悟ったつもりになる人はどの時代にもいた。
しかしほとんどの場合、それはエゴが膨れただけで、結局は悟りとは全くの反対の状態である。
「無師独悟」
の人はいまでもいるが、自惚れ屋で、威張りちらしている。

師匠についたこともない、共同生活をしたこともない、弟子もいない、実生活では誰とも共生できていない。
ただバーチャルな世界で「自分は凄い」と言っているようなものだ。
だから禅宗では、「無師独悟」を戒めているのである。
 
独りよがりで悟ったというだけならまだ個人の勝手ですむかもしれませんが、これが集団となり暴走をするとテロにまで発展した例もありますから、本当に気をつけなければなりません。
 
世間では、このような類の宗教もありますから先ずは疑ってかかったほうがいいと思います。
もちろん、この文を書いている私のことも、疑ってみてください。
 
次はお茶の時間です。
 
今日のテーマは「小さい秋見つけた」です。
お菓子は、いもあん、

f:id:nflight2014:20190803154940j:plain

 
もみじまんじゅう、

f:id:nflight2014:20190803155002j:plain


きざみ栗入り栗まんじゅう

f:id:nflight2014:20190803155016j:plain

の三種類で、すでに色づき始めた葉の上におかれていました。
 
おいしいお茶のあとは、一炷香(45分)しっかり坐りました。
 
来週は午後7時から坐禅です。お待ちしています。
 
義存 合掌