禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

禅体験セミナー (13)  禅のある人生 6

禅のある人生 ―仕事や家庭生活が禅でどう変わるかー と題して久保田鉄漢さんにお話しいただいたものを私(義存)の責任で要約して掲載しています。
 
 
最後は、禅と職業について話します。
家庭は禅者として、なんとかなったかもしれませんが、職業人としては、少なくとも仏道修行者としては、失格かもしれません。
本来は、生活即修行、仕事即修行であり、どんな相手にでも合掌して応対し人間形成の場とすべきであったのですが、これはなかなか至難の業で、ほとんどできなかったような感じで、今でも忸怩たる思いです。
会社での仕事は、経済行為をしているというのがまず優先して、どんな不利益も甘んじて受け、見過ごすことは、最後までできませんでした。
どんな無理難題も、人間形成の場として、自己の精進の糧として、黙々と合掌して対応するのが本来の修行者でしょうが、それは至難の業です。
ほとんどできなかったようです。
生産性の高い仕事をして、成果を優先せざるを得なかったのが正直な話です。
 
しかし、禅をやっていたおかげか、どんな仕事も、どんな職場も、どんな上司のもとでも、どんな部下がいても、仕事に支障が出ることはありませんでした。
ややこしい上司がいて、あの職場は難しいというと、私がその職場にやられるケースがありました。
これは、禅のおかげなのでしょうか?
本人は結構大変なわけですが、誰かがやらなければならないわけで、精神的に強い人が、そういう役をやるのが、まず無難なのだと思って引き受けました。
禅は、ものにとらわれるのをよしとしません。
禅をやっていたおかげで、ものにとらわれない訓練が人一倍できていますから、仕事上でも、これは非常に役立ちました。
 
会社生活では、たとえどんな良い提案をしても、相手はお客様ですから、
相手がNOなら、あきらめて違う提案をします。
とらわれていてももどうしようもありません。
また、どんな逆境でも、必ず突破口はあると思い、すべてクリアにして、一から出直すのも得意でした。
窮すれば通ずで、新しいアイデアも生まれます。
出口が見つかるまでは大変ですが、それは坐禅の修行で、もう十分経験済みのことでした。
 
禅には莫妄想(まくもうぞう)と言う言葉があります。
これは、妄想することなかれという意味ですが、実生活では、分かっていても、それに引きずられる人間の弱さ、
修行の足りなさを痛感させられる場合が多々ありました。
在家のまま、本当の禅ができるようになるのは、永遠のテーマかもしれません。
しかし、禅には、それをやる価値が十分にあると思います。
また今後とも、この禅を残していく必要性が本当にあると思います。
 
最後になりますが、禅を人間形成の道として、私も、まだまだこれからも修行に励んでいきたいと思います。
そして、是非、もっとたくさんの人に禅に接してもらい、禅による人間形成の道に進んでいただきたいと思います。
 
どんなに科学が発達し、便利な世の中になっても、自分の心の問題は、自分で解決しなければならず、そして、その心の修行は、人間の良心の問題として、その高みがある以上、少しでもそれに向かっていく努力をすることが、私たち人類に課せられた尊い課題であると思います。
 
禅の修行をして、人間形成の道に進むのは、早いほうが良いには良いのですが、いくつになっても、思い立ったら実行すれば、まだ間に合います。
インドの第10代の仏祖になられた脇尊者という方は、80歳になってから、仏の弟子になって修行をしたそうです。
昔の80歳ですから、今では100歳くらいになるかもしれません。
昼は仏典を読み、夜は坐禅をして、脇をつけて寝なかったそうです。
そのため、脇尊者という名前になったそうです。
 
この方のことを思うと、まだまだ、みんな若いのです。
新しい時代を切り開くべく、まだまだ頑張れるのだと思います。
 
2011年の東日本大震災の後の、新しい文明のあり方も、自分たちで切り開き、人類が22世紀を、無事に迎えられるように、少しでも力になれればと思い、これからも坐禅を続けていきたいと思います。
皆様にも、これからの人生を自分の力で切り開いていただきたいと思います。
そして、この「禅と茶の集い」が少しでもお役に立てれば幸いだと思います。
長時間のおつきあい、ありがとうございました。
これで、話題提供を終わります。
  
続く
 
義存 合掌