禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

第41回 禅体験会第二講「禅とこころ」④

国同士の争いといった壮大な話だけでなく、家庭や仲間との間にも言えることだと思います。

横田管長さまが毎月第2日曜に円覚寺でわかりやすい法話をされており、ユーチューブでも公開されているのですがその中で一番好きな話をひとつご紹介したいと思います。

 

円覚寺では昔から、地方から上京して大学に進学される学生を下宿させることもあるようで、そうした青年の一人大層優秀で、日本の大学を出た後、海外の大学院に留学されたそうです。留学から戻り久々に日本に帰ってきたある日、婚約の報告に円覚寺に訪れた際のことです。

嬉しいはずの報告なのに、本人は余り浮かない表情といいますか、悩んでいることがわかりました。

その悩みと言うのが「彼女がクリスチャンで教会で結婚式をしたいと言っている、自分は円覚寺にお世話になったのでぜひ管長のもとで結婚したいのだが、、、」と言うことです。

悩む青年に管長さまは「その彼女をことが好きなんでしょ?結婚したいんでしょ?」 「じゃぁ悩むことはない、教会で結婚式をしたらいいでしょう」と言われたそうです。

 

でもさらに青年は「彼女は結婚したら、日曜には教会に一緒に行ってほしいと言われている。自分は折角日本に帰ってきたのだから坐禅をしたいのに・・・」と言われた。

小さな宗教対立です。

でもその悩みにも管長さまは「本当に好きなら一緒に教会に行って上げなさい。でも教会に行っても腰骨を立て、ゆっくり呼吸をしながらお祈りすれば坐禅になるから」とアドバイスされました。

「そうした譲り合う気持ちを持っていれば、彼女の方も夫が熱心にしている坐禅とはどんなものか興味を持ってくれる日も来ることでしょう。」と話されています。

 

そして後日談として語らえたのは,キリスト教会で開催された二人の結婚式に管長さまは新郎主賓として僧衣のまま参列され祝辞を述べられたこと,結婚1年後の円覚寺日曜説教にその若夫婦が仲良く,管長さまの法話を聞きに来られたということでした。

私自身,改めて横田管長さまのお言葉や行動に心から尊敬の念を禁じ得ませんでした。

 

とかく坐禅を熱心にされていると独善的になりやすい罠があるように思います。

自分のやり方に自信を持つのはいいのですが、過ぎると「坐禅はこうでなくてはならない」と拘ったり、「あの指導は間違っている」といった批判をなさる方もいらっしゃいます。

 

また修行に夢中になる余り、本業がおろそかになったり、家庭での役割が放棄してしまうというのはやはり社会人としての坐禅への態度として違うのではないかと思います。

私自身もいろいろな方から指導を受け、法話や講演会をきいたり、講習会やセミナーに参加したりといろいろ試行錯誤してきました。

そうした中,私自身の優柔不断さで迷惑をおかけした方々も少なからずいらっしゃいます。でもやはり自分が無理せず続けられることを最優先に自分の生活と禅修行との距離感を微調整しながら過ごしてきました。

 

今は毎週金曜日にこの「禅と茶の集い」で仲間と会い、月一回は東京の白山道場で横田管長さまの提唱を拝聴し、年に1、2回は円覚寺にお参りしながら焦らずじっくりと禅に取り組んでければと思っております。

 

坐禅をはじめた当初、悩んでいたこと・・・まだ悩みは続いております。

坐禅したからといって、ぶれない自分がすぐにできるというのは幻想だとわかりました。

でもひとつだけ確信して言えるのは,家庭とも職場とも違う、3つ目のグループに加われたことで自分の人生の幅が拡がったという実感はあります。

 

この市民サークル「禅と茶の集い」の仲間は、家族にも職場の同僚にも話せないような悩みや宗教観など平気で相談でき、また皆さんが聞いてくれる、受け止めてくれる、そんな自分の居場所を提供してくれたと感謝してます。 

 

これはあくまでも私の個人的体験であって、今日お集りの皆さん全員に当てはまるものでもありませんし、全員が坐禅する必要もないと思ってます。

 

でも人生長いです。

どんなに努力していても誠実であっても,苦境や辛いと感じ、生きる力が弱くなる日もあることと思います。

 

そんな時に、坐禅のこと、そしてこの市民サークルのこと思い出して頂ければと思います。

 

お寺は「こころの病院」という例えもありましたが,この市民サークルが学生や社会人のための「こころの保健室」みたいなところになってくれればと思っております。

今日、お聞きいただいた話の中で何かひとつでも皆さんの参考になることがあればとても嬉しいです。ご清聴ありがとうございました。

 

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