禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「私は誰」 こーあんの語源?

昨日は臨時出勤日として朝から仕事したのですが,思いのほか早めにかたづき帰宅すると禅と茶の集いの鈴木義存さんからお電話がありました。

大拙先生と混同しやすいので以下,義存さんとします)

 別件でお近くまでいらしたようでしたので拙宅にも寄っていただきしばしお話ししました。

 

義存さんは長年,禅と茶の集いを運営されてきた大先輩であり,もちろん「禅茶な人」なわけで,そうとなりゃ絶好の機会「飛んで火にいる・・・」だと「禅茶ラジオ」のインタビューをさせて頂きました。

 

>インタビューの冒頭に「禅とか宗教的なものに興味を持たれたのは?」とお聞きすると義存さんは「中学生時代から『自分は誰か』という疑問をずっと持ち続けていた」ところからお話が始まりました。

 哲学的な素養に欠けているYmは「自分は自分じゃないのですか??」とトンチンカンな受け答えとなりながらも話ははずみ,楽しい収録となりました。

 

そして翌朝,つまり今日の円覚寺ラジオのタイトルを見て,またまた先週に引き続き驚かされました。

タイトルがなんと「私は誰」 背筋が少し寒くなるような・・・(^^;

 

 

この放送の中に次の一説があります。

 

かつて方広寺の安永祖堂老師を訪ねた時に、禅でいう「公案」というのは、インドのサンスクリットで、「私は誰か」という意味の言葉が、「こーあん」というところから来ているのではないかという説もあるとうかがったことを思い起こしました。

 (引用:第118回 管長日記と呼吸瞑想「私は誰」より)

 

なるほど「私は誰」というのは「己事究明」そのものなのですね。

 

しかし管長ブログとの不思議なシンクロニシティは何回目でしょう?

横田管長さまとのご縁,誠に有難いことでございます。(Ym)