禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

禅と茶の集い便り(19)茶とチャイ

今日(2014年3月21日)は「禅と茶の集い」はお休みなので、「禅と茶の集い」で発行している機関紙「松風(しょうふう)」からのエッセイを紹介します。  
 
 茶とチャイ
 
 僕はこの「禅と茶の集い」で、初めてお茶というものに出会った。この会に最初に参加した時に、お茶の飲み方がよくわからずにまごついたことは今でもよく覚えている。
 ところで、せっかくこの会でお茶と縁ができたのに、僕はお茶の世界にはまだなじめないでいる。それは、僕が以前にもうひとつのお茶の世界と強烈に出会ってしまっているからかもしれない。茶道の入り口にも立っていない僕には、お茶のことを語るすべもないのだが、僕には僕のお茶の世界がある。いや、僕の場合はチャイの世界だ。
 
 インドを旅した時のことだ。僕はタージマハールを見た感動を胸に抱いて、アグラからベナレス行きの汽車に乗った。汽車が比較的大きな駅に着くと、必ずチャイ売りがやって来る。チャイはミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶だ。周囲の人たちになって、僕もさっそく飲むことにした。汽車の中で飲むチャイには、また格別の味わいがあった。
 僕がチャイを飲み終わった後、そのチャイの入っていた器をどうしようかと思いまごついていると、前の座席にいた中年のインド人が黙って窓の外を指差した。はじめは彼が何を言おうとしているのか見当もつかなかったのだが、どうもその器を外に捨てろということらしい。
 日本の駅で売っているお茶の入ったポリ容器なら、なんのためらいもなくゴミ箱に捨てられるのだが、その赤茶けた素焼きの器にはなんともいえない味わいがあった。
 僕がまだまごついていると、彼は、「土から造ったものは、そのまま土に返すんだ」
と言って、ポーンと器を窓の外に放り投げた。僕はインドで数日を過ごしていたのだが、この時初めてインドと出会えたような気がした。
 僕もボーンと器を放り投げた。そしてやっと、チャイの入っていた器の色と、インドの大地の色がまったく同じだということに気がついた。
器は大地の中に吸い込まれていった。
 
 ガンジス河のほとりで、ブッダガヤで、ヒマラヤの懐に抱かれて、僕はチャイを飲んだ。一杯のチャイはどれほど僕の心と体を慰めてくれただろうか。
 インドやネパールの旅にチャイは欠かせない。大地はいつも僕たちにチャイを恵んでくれる。大地そのものが、「さあ、チャイでもどうぞと語りかけてくれているようだ。
 僕はチャイを飲み、大自然と僕自身を味わった。
 僕と大自然は、一杯のチャイで、そこに在ることを分かち合った。
 
 インドのチャイを心から愛している僕としては、お茶の達人の千利休んもぜひ、ヒマラヤでも眺めながらチャイを一杯味わっていただきたい。
 静寂の中で湯の沸く音に存在の詩を聞きながら飲むお茶と、インドで旅に疲れバニヤンの木陰で飲むチャイとを比べるすべはなく、またその必要もないのだろうが、どちらにしても心から味わって飲めればそれでいいような気がする。
 
今日も一杯のお茶を飲めることに感謝します。
 
合掌 義存
 
1983.6.10発行の『松風第4号』に摘載したものを一部校正
 
「禅と茶の集い」ではおいしいお茶がいただけます。
どうぞお出かけください。
 
次回は2014年3月28日、7時から、この日までは6階の和室で開催します。
 
 8時からは精神科医の太田先生の「調身調息の技法を応用したストレスコーピング」 のワークショップです。
 
 義存 合掌