禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

夏目漱石の「門」2 「禅と茶の集い」だより(78)

先週は、主人公の宗助が、禅寺に坐禅をしに行ったけれど、足は痛くなり公案の答えも出ず、苦戦を続けているというところまで書きました。
 
宗助はその後老師と面会し、参禅をして見解(公案の答え)を呈します。
 
宗助なりの何らかの答えを持っていったのですが、老師には、
「もっと、ぎろりとしたところを持ってこなければだめだ。そのくらいのことは少し学問をしたものならだれでも言える」
とあっさり否定されてしまいます。
 
ここで宗助は奮起して坐禅に打ち込まなければいけなかったのですが、どうも弱気になってしまい、用事を作っては寺の外に出たりして世俗のことが気になって仕方がありません。
 
「私のようなものにはとうてい悟りは開かれそうにありません」
と愚痴をこぼします。
 
世話係の僧からは、
「道は近きにあり、返ってこれを遠きに求むという言葉があるのが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」
というアドバイスとも励ましとも取れる言葉をもらうのですが、宗助は十日間寺にいただけであきらめてしまいます。
 
自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、
「たたいてもだめだ。一人であけてはいれ」という声が聞こえてきただけであった。
(中略)
彼自身は長く門外にたたずむべき運命をもってうまれてきたものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門ならわざわざそこまでたどりつくのが矛盾であった。彼は後ろを顧みた。そしてとうていまた元の路へ引き返す勇気ももたなかった。彼は前をながめた。前には堅固な扉がいつまでも展望をさえぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。要するに彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
 
という残念な結果になってしまったわけです。
小説の中の話とはいえ、読んでいる私もがっかりします。
 
このようなことは、実際に私の周りでも何回も起こっています。
 
「禅と出会って、これこそが私の道だと思いました」と言って熱心に坐禅を始める人は多いのですが、それが3年5年と続くことはなかなか難しい。
 
どうしたら継続できるかということを自分なりに振り返ってみると、まずは自分の中に道を求める気持ちがあるかどうかが大切なのは言うまでもありません。
そしてこの人にならついていけるという師との出会い。
一緒に坐禅をしている友との出会いが大切だと思います。
 
くじけそうになったときにそこに坐禅をしている道友の姿を見ると、ここでやめたら友人にも申し訳ないと思い励まされます。
 
禅と茶の集いでは直接坐禅の老師と話ができるという機会はありませんが、毎週ここに来ると、必ずここには坐禅を続けている友人がいます。
久しぶりに来てもここには坐っている人がいます。これは力になります。
 
よほどの天才で無い限り、一人でやり続けることは困難です。
まあ、この会はもともとそんなに大上段に構えてくる会ではありませんし本格的な修行をする会でもないので、気が向いたから行ってみるという思いがある人はいつでも大歓迎です。
 
ということで、来週は2015年8月7日6時からです。
どうぞおいでください。
 
義存 合掌