禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

禅体験セミナー (4)  ―釈尊の生涯をたどるー その3

禅体験セミナー(「禅と茶のつどい」主催)で取り上げた話題についての続きです。
 
前回は、釈尊が悟ったところまでお話しました。
 
ここで話が終わらないのは、釈尊が悟りの体験を自分ひとりのものとはしないで、その後、亡くなるまで約45年間にわたって教えを説き続けたからです。
釈尊が何も語らずそのまま亡くなっていれば、仏教は後代に伝わってはいません。
 
最初は、苦行を共にしていた5人の仲間のところに行きました。
5人は釈尊の教えを聞いて弟子となりました。
ここから仏教が始まったという見方ができます。
 
このあとも、釈尊は各地で教えを説き続けたので、帰依する人は増え出家者だけではなく在家の信者も出てきました。
教団はだんだん大きくなっていったようです。
 
この間のことは省略して、お釈迦様が亡くなるときの話です。
釈尊は教えを説く旅を続けていたのですが、郷里に近いところで病に倒れます。
信者がふるまったキノコを食べてひどい下痢になって亡くなられたのです。
別に劇的なことは何もなく普通の生身の人間として死を迎えられました。
 
遺言としての言葉は、 
「自分自身を島とし、自分自身を救いのよりどころとして暮らせ。
ほかのもを救いのよりどころとしてはならない。
法を島とし、法を救いのよりどころとして暮らせ。
ほかのものを救いのよりどころとしてはならない」
(大パリニッバーナ経)
 
そして最後の言葉は、 
「さあ、修行僧たちよおまえたちに告げよう
『もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく修行を完成なさい』と」(同)
 
ざっと釈尊の生涯をたどってみましたが、
皆さんの釈尊に対するイメージは変わりましたか。
 
ところで、釈尊は自分の教えについて体系的に本を書いて残したわけではありません。
 
釈尊の言葉が弟子達によって語り継がれて(口伝)、それがかなり後になって仏教の経典(お経)となっていきます。
 
一番古い釈尊の言葉として残っているのは、スッタニパータですが、それを読むと(岩波文庫ブッダの言葉)、様々な人の質問に答える形で教えが説かれているものがほとんどです。
 
 この後仏教は様々な形に変容していきます。
釈尊は神格化されていき、仏像として信仰の対象ともなっていきます。
さらに大乗仏教が成立していくとともに多くの経典が書かれ、今、日本のお寺に行くとたくさん見ることができる弥勒菩薩観音菩薩など多くの「いわゆる仏様」が登場します。
 
日本に入って来た仏教はほとんど中国経由の大乗仏教です。
 
仏教史を話すのが目的ではないのでこのへんでおしまいにします。
  
これは私が初めて釈尊の生涯について本で読んだときに思ったことです。
 
それまで仏教に触れ合う機会といえば葬式をはじめとする法事のときしかなかったので、無知といえばそれまでなのですが、
  
「へえ~。釈尊は実在した人なんだ、修行はしたけど葬式をしたことなんてないんだ。
極楽にいて人を救ってくれるわけでもないし、何かをお願いするとかなえてくれるという人でもないのか」
 
私の認識もこの程度でした。それから、俄然、釈尊という人に興味を持ちました。
 
古い思い出話になりますが、自分のことを話します。
 
学生時代に全く無目的にインドをふらふらしていたときのことですが(そんな時代だったのです)、釈尊が悟りを開いたといわれているブッダガヤにも足を運びました。
宿で知り合った友人から、日本寺では夕方に坐禅の会があるらしいから行ってみないかと誘われて行ったのが私の初めての坐禅体験です。
世界各国からの旅人がいて、大理石の床がとても冷たかったのを覚えています。
背筋を伸ばすように背骨を押され、あごを引くようにと姿勢をなおされました。
 
それから何年かして、この「禅と茶の集い」で禅と再会しました。
生来の怠け者のせいか正式に入門したほうがいいとの誘いを何年も断り続けたあげく、やっとの思いで師家(禅の法脈を受け継いだ指導者)について
本格の修行(本格とは言いがたいかも)を始め今にいたっています。
在家の身ですが、釈尊の弟子としての自覚を持ちずっと坐禅を続けていきたいと思っています。
 
続く
 
義存 合掌