禅と茶の集い

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体験セミナー (3)  ―釈尊の生涯をたどるー その2

禅体験セミナー(「禅と茶のつどい」主催)で取り上げた話題についての続きです。

 
前回は、釈尊が地位も名誉も財産も妻子も捨てて出家しましたというところまで書きました。
書き忘れましたが、これは釈尊が29歳のときです。
 
今回はその後の釈尊がどうなったかということです。
 
出家したとはいえ、どうしたら苦悩から抜け出せるのか、その方法がすぐ分かったわけではなかったのでしょう。
 
釈尊は修行者の先達である、アーラーラ・カーラマという人と、ウッダカ・ラーマブッダという人の下で瞑想について習いました。
瞑想といってもこれまたいろいろなイメージがあると思いますが、何か一つのことに精神を集中することであることは間違いないと思います。
 
坐禅の仕方とか、ヨガで言う瞑想のポーズとかは釈尊が独自に開発したものではなく、方法としては以前からあったようです。
 
二人の先生の教えについてはあまりに煩雑になるのでカットします。
 
釈尊は抜群の才能を発揮して、先生のいう境地、いやそれをも越え境地に簡単に到達してしまったようですが、釈尊が求める絶対的な心の平安は得られず、老・病・死への不安も消えませんでした。
 
困りましたね。
 
釈尊は次に、苦行の道に入りました。
多分その当時も苦行によって悟りを開こうという人は多くいたのだと思います。
 
とんでもない長い時間息を止めるとか、1週間どころか何ヶ月にもわたる断食とか、あらゆる苦行を経験し、周りの人からは、釈尊は「もう死んだのではないか」と思われるくらいの修行をしたようです。
パキスタンの美術館にこのときの様子を伝える釈迦苦行像というものがあり、日本にも来て話題になったことがありますが、それを見ると坐禅をしている釈尊の頬はこけ、肋骨の骨は浮き彫りのようになり、まるで骸骨が坐っているようです。

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信じられないことですが、これを6年間続けても釈尊は心の平安を見いだすことは出来ませんでした。
そして、苦行という選択肢そのものが間違っているということに釈尊は気づき、苦行を捨てました。
 
釈尊は、まず体の回復をはからなければなりません。
ある村の牛飼いのスジャータという娘さんに乳粥(ミルクで炊いたお粥のようなものを)をふるまってもらいました。
彼女の名前は、コーヒーなどに入れるミルクの商品名になっていますね。
 
さて、瞑想、哲学的思索や苦行でも心の平安を得られず悟ることも出来なかった釈尊が最後に選んだのが坐禅です。
 
菩提樹の下に草を敷いてその上で坐禅を組み禅定三昧に入りました。
悟りを開くまでは、この場を立たないと決めた最後のそして覚悟の坐禅です。
 
そして、12月8日の朝、明けの明星を見て忽然として大悟しました。
35歳のときです。
  
ここが問題です。
何を悟ったのか?
 
「一仏成道 観見法界 草木国土 悉皆成仏」
(いちぶつじょうどう かんけんほっかい
 そうもくこくど しっかいじょうぶつ。
テキスト「坐禅のすすめ」の77ページ)
 
いきなり難しい言葉が出てきました。
 
「悟りを開いて(一仏成道)、世界を見ると(観見法界)、
草や木もすべてのものが、そのままで仏である」
 
禅ではこのように伝えられています。
 
配布資料に、「衆生本来仏なり」と書いてありますがこれも同じことで、ここでいう衆生とは、人間に限らず森羅万象のことを指しているといってよいでしょう。
 
といっても初めてこの言葉を聞く人には、何がなんだか分からないと思います。
大体「仏」といっても、釈尊その人のことや、死んだ人のことを思い出してしまうと全然違います。
 
今まで釈尊の生涯を振り返り、老・病・死などの問題に苦悩した人間釈尊
最終的に坐禅を組んで禅定三昧に入り悟りを開いた、というところまで話しましたが、ここが仏教の原点です。
 
不親切だと思われるかもしれませんが、悟りの内容そのものは体験的なものなので、言葉で的確に表すことは出来ません。
 
禅体験セミナーに初めてきたので、仏教、ましてや釈尊の悟りなんて関係ない、こんな話を聞きに来たんじゃないと思われる方もいらっしゃると思いますが、禅の根底にはこういう背景があるということは、知識としてでも知っておいていただきたいと思って話しました。
 
続く
 
義存 合掌