禅と茶の集い

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禅体験セミナー (2) あなたにとって宗教とは? ―釈尊の生涯をたどるー

禅体験セミナー(「禅と茶のつどい」主催)で取り上で取り上げた話題について、シリーズで少し詳しくお伝えします。
 
あなたにとって宗教とはどんなものですかといきなり問われて、すぐに答えられるかといえば、ちょっとたじろいでしまう人が多いのではないかと思います。
 
日本人の一般的な生活を省みると、お正月は神社に初詣に出かけ、お彼岸やお盆のときは仏教徒(宗派はいろいろありますが)になり、結婚式やクリスマスの時にはいつのまにかクリスチャンになっている人がかなり多いのではないでしょうか。
 
日本は、宗教には寛容な国ですね。
 
宗教を大きく分けると、神話的な世界や、自然崇拝、先祖崇拝などその地域や民族に伝わる独特のいわゆる「民族宗教」と、仏教、キリスト教イスラム教のように誰がいつごろ開いた宗教だとわかる「創唱宗教世界宗教)」になります。
仏教はお釈迦様(以下釈尊といいます)から始まったので当然後者です。
 
禅はもちろん仏教の一つの宗派で、時代、民族、国を超えて世界に広まり多くの人が実践しているのはご承知のとおりだと思います。
 
さて、ここでは仏教の原点に戻るという意味もあるので、釈尊の生涯をたどってみましょう。
その中から「禅」というものが少し見えてくるかもしれません。
 
案外このことを知らない人がいますが、釈尊は実在した歴史上の人物です。
私達と同じ生身の人間で、最初からいわゆる仏様だったわけではありません。
 
釈尊は、およそ2500年前、今のインドとネパールの国境付近で釈迦族の王子として生まれました。
 
季節ごとに違う宮殿があったとかという話もあり、当時としては大変ぜいたくな暮らしをしていたようですが、釈尊は悩み多き青年だったようです。
 
どんな悩みがあったかというと、こんなエピソード(四門出遊)があります。
 
釈尊は、王子として大切に育てられていたのですが、あるときお城の東の門から馬車に乗って外に出ました。
そこで出会ったのが「老人」です。
釈尊はそれまで老人と出会ったことがなかったのでしょうか。
そこにいた御者にあれは何者かと尋ねました。
御者は、
「あれは老人で、人は誰でも歳をとればみなあのようになるのです」と答えました。
老いるということは、王様でも平民でも、金持ちでも貧乏でも必ず避けられない、自分もやがてはああなるのだと思ったに違いありません。
 
次に南の門から外に出ました。
そこで出会ったのが「病人」です。
ここでもあれは何者かと尋ねました。
御者は、
「あれは病人で、人は誰でもあのように病気になることがあります」
と答えました。
 
次に西の門から外に出ました。
そこで出会ったのは、「葬式の行列」です。
死んだ人を見たわけです。
当然、ここでもあれは何者かと尋ねます。
御者は答えました。
「あれは死人です。人は誰でも最後にはあのようになります。
どんな身分の人でも、何をした人でも最後は必ずあのようになります」。
 
ちやほやされて育った釈尊にはさぞかしショックなことだったのではないかと想像できます。
 
釈尊はここで、「老」、「病」、「死」という三つの苦悩と出会ったわけです。
しかし、これらのことを踏まえると、
「生まれる」ということ自体が苦ということになります。
四苦八苦という言葉を聞いたことがあると思いますが、「生・老・病・死」がこの四苦です。(残りの四つは省略します)
 
皆さんは今、これは釈尊の話として聞いていらっしゃるのではないかと思いますが、これは他人事ではなく私達人間として共通の苦悩です。
 
さて、まだ北の門が残っています。
釈尊は、そこで「修行者」と出会いました。
釈尊の問いに御者は答えます。
「あれは修行者で、老・病・死の苦しみから抜け出すために道を求めてすべてを捨てて修行しています」。
 
釈尊は、ここで自分の歩むべき道を見つけたのでしょう。
 
地位も名誉も財産も妻子も捨てて出家しました。
 
続く
 
義存 合掌
 
* 多くの書物を参考にして書いていますが、これは個人的なものであり、人間禅を代表するものではありません。