禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第2章 『坐禅の実習』 第2節 坐禅の仕方 p34~45 太田東吾

これから坐禅の組み方並びに数息観の実際について述べる。

 

1.一般的な注意

(1) 坐る場所 

坐禅儀』には【閑静の所に於いて】とあり,初心者では屋内で,なるべく静かな所がよい。 また明るさについては,あまり明るすぎても心が散りやすく,やや暗いかと思う程度がよい。

 

(2) 食事と睡眠

坐禅儀』には【飲食を量り,多からず少なからず,其の睡眠を調え,不節不恣なるべし】とある。食後30分か1時間程は坐禅はさけた方がよい。

食後は消化作用に充分時間を与えることが自然であり,また大体眠くなり易いものである。また食事の量も節度を心得てとり,睡眠も適度にとることがよい。不節不恣とは多すぎもせず,また少なすぎもしないことで,度を節制することであり,節度というものは,自然の摂理に深くかかわっているものである。

 

(3) 坐る時間

一日の中で最も自分が坐りやすい時刻を選び毎日続けることが肝要で,生活のリズムに組み込むという意味で,定まった時間帯を選ぶのがよい。普通は朝の起床後静坐する場合が多い。

 

次に坐る時間の長さについては,普通「一日一柱香」といい,線香一本の燃えつきる45~60分位の静坐が実行されている。しかし初心の間は15分から30分位でもよい。 最初の間は慣れない姿勢の為に方が張ったり,腰や脚が痛くなるが,大抵の人は15分位なら大丈夫で,15分位から始めて少しずつ時間を延長してゆくのがよい。途中で眠くなったり,気持が落着かなくなったり,“こんなことをしていてどうなるのだろうか?”などと考え込んだりすることがあるが,しかし勇を鼓舞して何としても所定の時間は,後で述べる数息観に打ち込むべきである。

数息観を一ふりの名剣とし,それを以っていろいろな雑念妄想を截断してゆくようにつとめるのである。また,坐禅をすると,いろいろと善い念慮や良いアイデアが出てくる。それを一々とり上げていたらきりがないので,それも今は想うべきではないとして,棚に上げてしまうのがよい。

通常 時間を計るのに線香を用いるが,これにはいろいろとわけがあるのである。古人は線香の燃える火を菩提心にたとえてその燃えてゆく姿を菩提心が邪念を滅ぼしてゆくものと見て,その燃える火に過去に非ず,未来に非ず 現在に非ざる如是の正法の姿を看取した。 また線香の香りは,身心を清爽にするものである。

 

(4) 座具

厚めの座布団を下に敷き,その上に各自,自分に合った大きさの丸い座蒲を敷く。座蒲がなければ,座布団を二つ折りにしたものでもよい。

この臀に当てる座蒲の高さが坐禅時に微妙な影響を持っている。よく坐れた時の高さを忘れず自分にプタリと合う高さをみつけることである。

 

(5) 服装

洋服よりは和服が坐りよく,その場合は袴を着用する。洋服の場合は上着を着用し,太めのズボンの方がよい。女性も洋服の場合は太めのズボンか長めのフレア・スカートがよい。

 

2.坐禅の組み方

 

用意した座具の上に,五輪の塔を据えたような気持で坐るのであるが土台たる足の組み方には結跏趺坐と半跏趺坐との二様式がある。

前者は左の腿の上に右足をあげ,右の腿の上に左の足をあげる。後者は左足を右腿の上にあげるのである。不都合なときは右足をあげてもよい。この場合上半身が何れかに傾きやすいので,下の方の足や座具などで調節せねばならない。

 

いずれにしても,両方の膝頭と尾骶骨とを結ぶ正三角形の中心に,脊梁骨をピンと伸ばした上半身の重心が落ちるようにしなければならない。

土台が定まったら,次は手の置きどころである。両掌を上にむけて,右掌を下に左掌をその上に重ね,両方の拇指を相対して,かすかにふれ合いながら軽く支え,前からみると楕円形を形作るのである。

 

以上のように組んだ手を土台たる脚の上に置き,肘は軽く体をはなし,あたかも両肩を切り落とした如くに肩の力を抜く。 次に上半身を前後左右に五・六度ゆらゆら揺身してから後に端座するのである。

脊梁骨をピンと立て奥歯をかんで唇を結び顎をぐっと引く。この時鼻端はほぼ臍と相対し,耳と肩とが相対し,腰の部分はやや出尻となる。

 

上は天を貫き,下は地球の中心に向かって地軸を貫くという気持ちで坐るのである。 眼は閉じずに,視線を約1米位前方に自然に落す。

閉眼の状態では,昏沈状態におち入って効果のある数息観が行じられない。日本坐の場合は,尻の下に布団をしき,足の拇趾を重ね,左右の膝はこぶしを二つ並べたくらいに開くようにする。他は結跏趺坐と同じである。

 

3,数息観の仕方

1) 調息と数息観

坐禅を組み工夫に入る前には,古来から「欠気一息」することが習わしとなっている。欠気というのは,胸から肚の奥底までたまっている息を全部吐き出し,新たな息を吸いこむ深呼吸のことである。

その深呼吸のやり方は鼻から空気を腹部,胸部そして肺尖部まで充分に吸い,そのまま息を吐き出さずに肩甲骨を下げると自然に横隔膜が下がるので,肺のすみずみまで空気がしみ通るように感じられる。

しばらくそのまま呼吸を止めておき,徐々に鼻孔から細く長く吐き尽くす。それを2~3回反復し,その後は自然の呼吸にまかせる。

 

正しい坐相で無理のない自然の呼吸を続ければ,自然と気海丹田に気が充実してくる。その息を数えてゆき,次第に心を調える観法を数息観という。

その方法は,入息と出息をもって“一つ”と数え,次の入息出息で“二つ”と数え,百まで数えたら,また一つに戻る。この星座の間中,純一に行うのである。

数え方には,ヒーイー,フーウー式,ヒトーツー,フターツー式,イーチー,ニーイー式などいろいろあるが,各自で一番効果的なものを体得されたらよい。

 

ところで,このように,自分の呼吸を数えるということは,一見単純にみえるが,実際にやってみると,とても難しいことだと思い知らされるであろう。

古人は【相続 最も難し】といっているが,このような数息になり切るためには,大いなる錬磨修熟を要する。 さて,数息観の修練の程度に応じて,前・中・後期の三段階がある。 前期は上述したように,百単位に数えるやり方で,中期は十単位に数えるのである。この中期の場合,(1)勘定を間違えないこと (2)雑念を交えないこと (3)以上に反したら一に戻すこと の三条件を守る必要がある。

後期では,もう呼吸などは意識せず,従って息を数えるのでもなく,そういうことは一切忘れはててしまう,しかも放心状態ではなく,「念々正念 歩々如是」の境涯であるとされている。 数息観を真剣に行ずれば大いに定力即ち道力がつく。しかし真理の眼即ち道眼は開かれないので,後述するように,数息観によって心を調え,三昧の定力をつけた上で,入門し,公案の工夫を行い,参禅弁道によって道眼を開かなければならない。

 

2) 数息観の実習上の注意

(1) 自然の呼吸

数息観を始めて,まだ日が浅いものは,呼吸を数えるという意識が働くと,かえって呼吸が自然でなくなり,苦しくなる。心を左の掌の上におき,肩の力をぬくのが本格の坐禅であることを想うとよい。自然に気が臍下丹田の方に下りてゆくものである。

 

(2) 眠い時などの数息観

眠い時や精神的にイライラした時の数息観のやり方は,運動を少しした後に再開するのもよい。 また,両眼にて自分の鼻の先を凝視するのもよい。

古人はこれを【眼半目を以て,鼻端を守る】といっている。

 

(3) 雑念

坐禅を始めて間もない頃は,雑念は内外のチョットした刺激を契機にして常に出る。それが連想をよびおこし,自分の意志とは無関係に連想を続けるという始末となる。少し三昧の力がついてくると,雑念に出かたがあるのに気がつく。

ある場合は呼気の時には比較的消失し易く,吸気には出易く,ある場合は,呼気吸気いずれにも出ないが,その切れ目に出てくる。そこで刺激に対して一念の起きるとき,それをそのままにして二念を継がないようにしたらよい。『坐禅儀』には【念起らば即ち覚せよ,之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘ずれば,自ら一片となる】とあるはこれである。 また,吸気に注意して吸気の時だけ数をかぞえる方法もよい。息で雑念を空ずるのである。特に精神が雑念妄想でいっぱいになった時は,この方法がよく,吸気とともにその念慮が空じられるのである。

 

(4) 現境

数息観が身についてくると,周りの雑音や状況に左右されず,比較的落ち着いて数息観が可能となってくる。このような時,微妙な音が何処からか聞こえてくるような感じや,静寂につつまれた湖畔にただ一人坐っているような感じや,あるいは実際存在しないものが見えたりする感じ,あるいは自分の体から光が出るような感じ,その他様々な気持ちが起こってくることがある。

 

これらは全て連想能力が静まったあと,潜在意識が意識上に投影されて出てくるもので,「現境」と呼ばれている。このような現境を誤って悟りと勘違いすることがよくある。 法統の正しい正脈の師匠に出逢わないと,正しい悟りと現境を鑑別することが不可能なので注意を要する。

しかし,この現境が生じてくることは,数息観の三昧力がかなり身についてきた証拠であるので,勇気をもって歩を進めて頂きたい。 以上のような注意をふまえて,数息観が実行できる頃には,呼吸を数えるのは単に頭だけの働きではないことに気がつく。 “足の踵で数を読め”とか,“身体全体でつっくるめて数息観するように”という先輩の指示が実際に自分の身体を通じてわかるようになる。

 

4.出定並びに経行

坐禅で斬枚になったところから出る出定の時は徐々に身を動かし,急激に立たない。静坐中はどちらかというと,副交感神経が優位にあるので,急激に立つと脳貧血状態を起こすことにもなり,何にも増して,今までの定力と工夫がとだえることにもなる。

また,静坐中時々「経行」ということが行われる。これは静中の工夫を動中に移し,歩行中に三昧になる工夫の為に,指導する者が,頃あいをみて大衆を先導して歩行を行うのである。この時の身のたたずまいは,坐禅時と同じで,脊梁骨を立て,眼を約2米位先に落す。手は「叉手当胸」といい,開いた右の手を左の手の上に交叉して重ねて胸にあて,拇指と拇指とを軽く触れる位に保つ。

 

さて,この経行は歩行中の正念工夫,動中の工夫の訓練なのであるから数息観を行じている者は,純一に歩行に合わせて数息を行うようにする。歩き方は一呼吸一歩というやり方を行なう。左足を運ぶ時は吸う息,右足を運ぶ時は吐く息ときめておくとよい。 尚,経行中には,一心不乱に一つの念慮になりきる凝念ということも効果があり,各自で工夫してみるとよい。

「念々正念 歩々如是」と凝念する方法がある。(53頁以下参照)

 

5.坐禅のすすめ

1) 継続

どの習いごとでも同じであるが,毎日続けていくことが肝要である。一口に毎日続けるというが,実はこれは容易なことではない。誰でも本当に一日一炷香を行じているかと聞かれれば,顔を赤くせざるを得ないであろう。

さて,初心の人達へのアドバイスとしては,次の二点をあげることができよう。一つは最初から無期限としないことである。無期限はともすると三日坊主に終わりやすい。最初の間はともかく言っての期限をきめて始めた方がよい。そして期限がきたらその時に改めて続けるか止めるかを決める。 二つには,坐禅ができなかった時は,くよくよと思わずに,その時から立ち直ることである。現在の自分の力を過信せず,倒れたらまた立ち上がり,翌日から心を新たにして,出直すのである。いつでもくよくよ過ぎ去ったことを思わず,心を明日に向けて歩き出すのである。

 

2) 積極的な工夫

坐禅は,ただ受身的に一定時間を静かに坐ればよいというものではない。自分自身の心の源底を究め,本心本性を悟るための行であるから勇猛心を以って工夫に打ち込むことが必要である。形ではなく心であり,量より質である。 工夫を深めるというのは,ひとえにその人の熱心さ,打ち込み方にある。